邪馬台国の女王 「卑弥呼」 とは?

邪馬台国の女王卑弥呼

 

f:id:cm-0116:20171216111524j:plain

 

3世紀前半ごろ、

北部九州・近畿(大和)にあった邪馬台国の女王

名の卑弥呼は当時の日本語を中国語音で表記したもので

個人名でなく

ヒメコ(日女子)

ヒノミコ(日の御子)

ヒメミコ(日女御子)

太陽の霊威を身に付けた女性を意味する

首長の地位または称号

私はてっきり個人の名前だとおもってました

 

日本書紀』などにみえる

神話・伝説上の実在しない人物に

当てる説があるが根拠はない

 

別説としては

九州の女酋とする神功皇后

ヤマトヒメノミコト (垂仁天皇の娘)

ヤマトトトヒモモソヒメノミコト

(孝霊天皇の娘)説とがある

 文字の無い時代だから、

真実を伝えるすべがなかったのですね

 

三国志」の『魏志東夷伝のうちの倭人 (わじん) の条

魏志倭人伝によれば

f:id:cm-0116:20171216111537j:plain

帯方の南東の大海中にあった倭人の国は

多くの部落国家に分かれていた

男王が統治していた2世紀後半

国の統一が乱れ 部落国家が抗争していた

 

3世紀前半

女王「卑弥呼」の擁立

連合国家的組織をつくり国内は安定した

卑弥呼

「鬼道に仕えよく妖をもって衆を惑わ」し

その姿を見た者はまれであった

卑弥呼は魔女?妖女?

 

一生 夫をもたず

政治は弟の補佐によって行なわれた

武装した兵士に 警備された壮大な宮室を持ち

常に 1000人の婢 にかしずかれていた

女王卑弥呼への取り次ぎは居室への

出入りを許された1人の男によって行なわれた

「女王様」ですね! ですよ!!

 

中国の景初2 (238) 年 (一説に景初3年)

第1回の使節を魏に遣わし

生口 (奴婢) や布を献じた

 

これに対して明帝は,

卑弥呼に「親魏倭王」の称号と金印紫綬とを与え

錦,絹,刀,銅鏡,真珠などを贈った

人身売買?物々交換?わらしべ長者

 

邪馬台国が狗奴国と交戦した際

魏は詔書を送ってこれを励ましたという

 すっかり、

味方につけてたのですね!

 

卑弥呼が死ぬと,径百余歩の塚を築き

女婢百余人とともに葬られた

 

そののち男王が立ったが国中が服さず

卑弥呼の一族で 13歳になる少女※壹与が女王となって

国中が治まったという。

 

壹与

邪馬台国の女王卑弥呼の宗女。

魏志倭人伝」に卑弥呼の死後

一三歳の 壱与を立てて国の内乱を治めたという。

魏に遣使「壹(壱)」は「臺」の

誤写とし臺與(と よ)とする説もある〕

 

3世紀当時

中国,朝鮮では女王の例はなく

しかも首長たちが共同で王を立てるのも稀であった

倭国で女性の卑弥呼邪馬台国の王となり

魏との外交により倭王の号を認められたのは

その霊媒的能力を備えたことや邪馬台国

倭国の国々の中で末盧,伊都,奴などよりも

首長層を多数擁するような政治的身分的

先行した社会であったことが要因であろう

昔から、霊感の強い

神の使いのような人が存在していたんですね

 

また卑弥呼に続き壹与が女王となったように

倭国では女性首長の存在が認められるような

家族社会の構造が基礎にあった

 

邪馬台国の王権は卑弥呼と弟の男女ふたりの首長が

権力を分掌したとみなす考えや

弟が最高首長で卑弥呼はその地位を保証する

近親女性であるとする説がある

 

江戸時代から続くといわれている邪馬台国論争

卑弥呼の墓というと箸墓古墳が有名ですが

 

 

f:id:cm-0116:20171216113248j:plain

邪馬台国の所在地論は卑弥呼の墓と密接に関係するが

各種の首長が重層的に支配秩序を形成する形の

邪馬台国的な政治社会や初期的国家は当時

北部九州

瀬戸内海沿岸部

近畿など各地にあったと考えられる

なお卑弥呼の墓が考古学上の弥生時代

古墳時代かのどちらに属すかが問題であるが,

3世紀を古墳時代に入るとする見解では

大和東南部の纏向遺跡(桜井市)や

箸墓古墳(同)などを重視する。

卑弥呼の墓のお話は つ・づ・く

 

 

 

 

http://amzn.asia/goi5UZm