チョコレートは飲み物だった-その2

何百年もの間チョコレートの

製造工程は不変だったが

産業革命の到来により

 

飲むチョコレートから

硬く甘いキャンディに

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生命を吹き込む多くの変化が起きた

18世紀には固く長持ちする

チョコレートの製造の補助となる

ココアバターカカオバター)を

絞り出すための機械式ミルが

作られてはいたが

大規模に使用されるようになったのは

産業革命以降である

18世紀の末までに

ヨーロッパの各所に水力を利用した

チョコレート製造所が現れた

やがてそれらは蒸気力を導入し

より大規模になり

チョコレート産業都市を形成した

産業革命の熱気が冷めてから程なくして

チョコレート会社は新しく作られた

チョコレート菓子の販売のために

我々が頻繁に目にするような

広告や宣伝を行うようになった

製造工程の機械化により

チョコレートは世界中で

消費されるようになった

菓子材料としての利用も

同時期に始まっており

文献上では1719年に

コンラッド・ハッガーが残した料理手帳に

「チョコレートトルテ」が確認できる

 

19世紀初頭、シモン・ボルバルによる

南米の動乱からカカオ生産が落ち込み

ナポレオン戦争の影響で贅沢品に対する

購買力が落ちた

大陸封鎖で品薄となった代わりに紛い物が出回り

品質に対する信用も低下し

チョコレートは停滞の時期を迎えた

しかし、チョコレートの技術革新が

起きたのはこの低迷期だった

1828年

クーンラート・ヨハネス・ファン・ハウテン

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バンホーテンの創業者)はカカオ豆から

ココアパウダーとココアバター

分離製造する方法の特許を取得した

それまでのチョコレートは濃密で

水なしでは飲めないものだったが

これにより口当たりがよくなり普及が進んだ

さらにファン・ハウテンはアルカリを

加えることで苦味や酸味を除く

 ダッチプロセスをも開発し

 

現代的なチョコレートバーを

作ることも可能になった

もっとも、ファン・ハウテンの圧搾機が

開発された当時は

チョコレートは未だに飲み物であり

抽出したココアバターの使い道が

無かったために特に注目はされなかった

1847年にイギリス人のジョセフ・フライが

初めて固形チョコレートを作り

1849年にキャドバリー兄弟により

引き継がれたともされている

ただしこれはまだ苦いものだった

初の固形チョコレートが

ドレによりトリノで作られ 

1826年からピエール・ポール・カファレルが

大規模に売り出したものという説もある

1819年にはF.L.ケイラーが初めて

スイスにチョコレート工場を開設した

 

スイスのろうそく職人

ダニエル・ペーターは義父が

チョコレート会社を経営していたことから

チョコレートに携わるようになり

1867年からチョコレートの苦味を

まろやかにするために牛乳を入れることを

試行錯誤し始め

(溶けたチョコレートに水分を混ぜると

  チョコレートの中の砂糖が水分を吸収し

   ココアバターの油と分離するために

    ボソボソになり食感が悪くなる)

 粉ミルクを入れるという解決方法を発明し

1875年にミルクチョコレートの販売を始めた

またミルクチョコレート製造には

牛乳から水分を抜く必要があったが

ダニエルは隣りに住んでいた

ビーフード生産業者の

アンリ・ネスレネスレ創業者)と

協力して研究を行った

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またロドルフ・リンツはチョコレートの

粒子を均一かつ細かくし

滑らかな食感を出すのに必要な

コンチングを考案した

 

帝国主義の時代

アフリカやインドネシアといった列強の植民地に

カカオの栽培は拡散していき

1910年にはギニア沖のサントメ島が

世界最大のカカオ輸出地になるなど

カカオ生産の拠点はアフリカにシフトした

1905年にイギリスのジャーナリスト

ヘンリー・ウッド・ネヴィンソンが

サントメ島を取材し、

レポートや「現代の奴隷制」といった著作で

奴隷的な労働の実態を明らかにし

センセーションを巻き起こした

日本では?

一説に、初めてチョコレートを口にした日本人は

支倉常長であり、1617年にメキシコに渡った際に

ビスケット・パン・コーヒー

金平糖・キャラメルなどの菓子とともに

薬用としてのチョコレートを味わったのだとされる

日本におけるチョコレートに関する明確な記録は

18世紀の長崎の遊女がオランダ人から

貰ったものを記したリスト

『長崎寄合町議事書上控帳』に

「しよこらあと」として登場するのが最初で

同時期に記された『長崎見聞録』にも

「しょくらあと」に関する記述がある

1873年には岩倉使節団がフランス訪問中に

チョコレート工場を見学し記録を残し

次のように書き残している。

銀紙に包み、表に石版の彩画などを

張りて其(それ)美を為す

極上品の菓子なり

此の菓子は人の血液に滋養を与え

精神を補う効あり

 

日本初の国産チョコレートは

風月堂総本店の主

5代目大住喜右衛門が

当時の番頭である米津松蔵に

横浜で技術を学ばせ1878年

両国若松風月堂で発売したものである

新聞に掲載した

日本初のチョコレートの広告には

「貯古齢糖」の字が当てられていた

カカオ豆からの一貫生産は

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1918年森永製菓によって開始された

こうしてチョコレートは

高級品から庶民の菓子となり

1920年代から30年代にかけて

日本人の間に急速に普及した

当時のチョコレート菓子は

玉チョコ(いわゆるチョコボール

棒チョコという形状が一般的であった

第2次世界大戦のの影響により

日本では1940年12月を最後に

カカオ豆の輸入は止まり

あとは軍用の医薬品

(常温では固体で人の体温で溶ける

  ココアバターの性質から

   座薬や軟膏の基剤となる)

食料製造のために

指定業者にだけ軍ルートで

カカオ豆が配給されるのみとなった

 

「日本チョコレート工業史」によると

1941年に日本チョコレート菓子工業組合と

日本ココア豆加工組合からなる

「ココア豆代用品研究会」により

ココアバターの代用品に醤油油

(醤油の製造過程の副産物。

  丸大豆に含まれる油。

  よく誤解されるが醤油そのものではない)

大豆エチルエステル・椰子油

ヤブニッケイ油などの植物性油脂の硬化油

カカオマスの代用品に百合球根

チューリップ球根

決明子(エビスグサの種子)

オクラ豆、脱脂大豆粉、脱脂落花生粉などを

原料にした代用チョコレートが考案された

 

オランダ領 東インドを占領した日本軍は

カカオ豆プランテーション

 ジャワ島の製菓工場を接収し

森永製菓や明治製菓

チョコレート製造を委嘱し陸海軍に納入させた

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また軍用に熱帯で溶けないチョコレートも開発された

1945年に日本が第二次世界大戦で敗れると

 アメリカのの進駐軍を通じて大量の

チョコレートが日本にもたらされた

当時の子供たち(焼け跡世代)が

呪文のように米兵に投げかけた

ギブ・ミー・チョコレート!

米国占領時代の世相を表す語となっている。

1946年には芥川製菓によってグルコース

原料にした代用チョコレート

(グルチョコレート、グルチョコ)が製造された

カカオマスの代用品となるグルコース

少量のココアパウダーと

チョコレート色素を加えた物であった

 

戦後の日本では

安価なものから高価なものまで

さまざまなチョコレート菓子が

販売されるようになった

特に1960年にカカオ豆の輸入が自由化され

続いて1971年にはチョコレート製品の

輸入が自由化されたことで

様々な種類のチョコレートが流通するようになった

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そして、現在に至る